アプリコットな日々

気長にブログ始めてます。日々の想いを綴る。

意地悪く言えば「うそ・ホント」、「本音と立て前」についての一考察

《本音と立て前から想起されるもの。 それぞれについて考えてみた。》

秩序と真理

これは、新約聖書に詳しい。キリストはそのために闘った。見えるものと見えざるもの。キリストはそれを盲人と言った。心は神のもの、その意味において人間は普遍的であり、救いの道があるとした。どう読んでもキリストが嘘や妄言を言っているようには読めない。心は神に通じている。神様は全てお見通し、ということ。

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本音と立て前

立て前って自分を守ることでもある。自分の感性を否定するわけにはいかない限り、時には装う必要もある。処世術でもあるのだ。人間は成長をしていくもの。咎めるのもほどほどに。世の中は、立て前(秩序)で成り立っている。相手に対する礼儀でもあり配慮である。コミュニケーション論で学んだのだが、人間は、言葉によるコミュニケーションは数%でしかなく、残りの93%は、言語以外のところでコミュニケーション(意思疎通)をしているという、いわば定説があるようだ。身振り、手振り、表情、声のトーン、服装、髪型、等々。隠しても隠しきれないものでもあるのだな。しかし、本音と本音が結びついた時ほど愉快なこともなく、皆本音を求めて生きているところもあるんだろうな。本当のこと、真実を。それが、人に対する信頼に繋がっていくのだろう。信用に足る人、でありたい。

言って良いこと悪いこと

だから、時には、本音を言っていいこともあるし、悪いこともある。あれこれ考えずに、謀をせず、心のままを現せ、ということだろうか。邪な心によるのではなく、素直で正しい心によって。

宗教と宗教の対立

実際、宗教と宗教の対立は、結局のところ文化と文化の対立なんだと思う。キリスト教イスラム教、ユダヤ教、どれも同じ神を信じているにもかかわらず、未だ統一されていないのは不思議でならない。神の国に入るには、象が針の穴を通るより難しい、という。人類に少なからず神のお許しがあることを願う。

理性と平和

宗教にはそれぞれの文化が根を張っていて、平和のためには理性が必要なんだろうな。宗教なんて持ち出したら、結局物別れになってしまう。理性は、ジェンダーの問題とか人種の問題にも言えること。お互いを尊重すること(配慮、思いやること)。そうすれば自ずと適度な距離感が生まれる。これがベースとすべきルールだな。その上で、融合もあり得ることかもしれない。しかし、人類皆兄弟ともいう。始めはアダムとイブから生じたとしても皆産めよ増やせで数を増し、兄弟たちはそれぞれ新しい土地へと散っていき、その結果、今があるのだ。日本だって同じことが言える。正しく生きて現実を受け入れる。これが基本だな。

フィクションとノンフィクションの違い

フィクションが好きか、ノンフィクションが好きか、といったテーマがあったりする。フィクションは架空の話だが、いわば心の世界を自由に描けるものであり、そこが読み手を引きつける魅力だったりする。ストーリーもなにがしかの欲求を満たしてくれる。ノンフィクションは、一見 ”実” を見せながら、結局現実の一場面を切り取ったに過ぎないが、より深く切り込むことで、我々は”真相”を得ることができる。感動を呼ぶものもあるが、場合によって、闇に切り込むことで危険に晒されるので、命がけな場合もある。半公然の事実として、闇社会が支配する、そんなことはあって欲しくないが、その闇が国の外観を成していることもある。しかし程度の差はあれ世の中、それぞれ思惑が支配をしている。それが現実だとすれば、やはり、フィクションで何らかの不都合を発散しているのだろう。