時間はとても大切なもの。
だからと言って時間に追われるようには生きたくない。
やるべきことは、とにかく体を動かして、済ませる。
でも、時には体と心とに折り合いをつけて。
10時15分。
私にとって、偶然に出会す”時刻”でもある。
夜、寝床につく時、ふと時計を見ると決まって10時15分。
睡魔に襲われ、つい眠ってしまって、目を覚ますと10時15分。
睡眠によく関係している気がする。
午前中の時もあれば、夜の時もある。
私にとってのタイムリミットなんだろうと思っている。
3時、11時、7時、8時など丁度の時間もある意味タイムリミット。
迷信みたいだが、言い訳として割り切って。
同じ時間でも、長く感じたり、遅く感じたりする。
それは、個人的なものなのか。
一つ、不思議な経験として、
ある日、バスに乗っていて(市営バスで3分間隔くらいで停留所に止まる)、
20分くらいは経っていたのだが、それがあっという間で、
それにふと気づいた時、後部座席にいた女学生らも、同時に声をそろえて「、、早いぃ〜」と。
時計もステップ秒針だと遅く感じるが、連続秒針だと早く感じる。
動きの速いものを見れば、ついていけなくなるし(逆に冷静になる)、
遅いものは、焦ったい。
ベルクソンは、空間における時間を計測可能な等質性と言い、そして意識、心の働きを持続性、外延的なものとして自由を論じているのだと思うが、この内的な時間感覚というのは、物理でいう4次元空間における時間とは違うでしょう。それは、計測可能であり、内的感覚を説明するものではない。
さて、果たして、夢を見ている時間は、感じている速さと同じなのか?
同じ作業をするのでも、考え事をしている時は、すぐに済む。
時間を感じながら作業をすると、長い。
映画でもありますね、天界と下界との時間感覚の違いを基に話を仕立てていたり、
また、浦島太郎なんかもそんな世界ですね。
聖書にもこんな言葉が出てきます。
神にとって、”千年は一日のように、一日は千年のように”、と。
そう考えると、神様にとって人類の歩み、ひいては、地球、果ては宇宙まで、さぞかし面白いことでしょうね。
しかしこれは、歴史を学ぶ醍醐味でもあります。
こんなことを書いて、時間を使っている訳ですが、
こうして書くことにより、間違いがないか、本を読んだりネットで調べたりすることになるので良いかなと。
じっくり書きたいので、大事なことを済ませてから書くようにはしています。
何かを達成した人の話には、よく、「人生や楽しみを犠牲にして、、」とあったりします。できるものなら、私もそうして目標を立てて達成したいですが、歳も歳だし、体が思うようについてきてくれません。
家族の一員として、自ずと義務も生じます。パスカル によれば、義務とは、面倒に感じるものである、とかいったことが書いてありました。そう言われてみれば、お茶碗を洗ったり、お風呂場洗い、掃除、洗濯など確かに面倒。それからは、あぁ、これは義務なんだと自覚するようになりました。怠けないように努めてますが(そのために、スケジュールを立てている訳ですが)、時間は大切にしたいです。