アプリコットな日々

気長にブログ始めてます。

古典との符合『荘園』と『今昔物語』そして”昨日の地震”

今、中公新書の『荘園』を読んでいるところです。同時並行して、『今昔物語』も読んでいて、重なる部分もあったりして、ちょっと気持ちがはやっています。まだほんの始めの方でしかありませんが、面白そうだということが分かりましたので、最後まで読めそうです。

ん?「三世一身法行基」??

行基といえば、確か今昔物語の2つ目の話ではなかったか?

三世一身法は当時の社会に大きなインパクトを与え、各地で郡司、官人、寺院、有力農民らによる開墾が始まった。その具体的な姿を、仏教を民間に布教させたことで有名な僧、行基の活動に見ることができる。”(『荘園』p.12)

 

行基は仏教の教えを広めるだけでなく、、、弟子や支持者を動員して道路の整備などの社会事業を行って人々に利益をもたらし、、、” (『荘園』p.13)

へぇ、そうなんだ。教科書にも出てきたかなぁ?

しかし今昔物語を読むまで行基なんていう名前など知らなかった。

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さて、昨日の晩、福島で大きな地震がありました。

昨日は、薬の副作用で鈍った頭で粘って『荘園』を読んでいたのですが、

ようやく1章まで読んで、一旦本を閉じました。

夕食を済ませ、少しテレビを見て、寝支度をし布団に入って、

少し目も冴えており、先を読んでおこうと、第二章をちょっと開いて読んだんですが、、、

 

相次ぐ天災

 

政界の激動(摂関政治の始まり)の背景には天災による社会不安があった。

864(貞観6)年から富士山が噴火し

868年には播磨国震源とする地震が起こった。

翌869年には貞観地震と呼ばれる大地震が東北地方の太平洋側で発生し、大津波が襲った。2011年の東日本大震災は、この大地震の再来とも言われている。

その後も878(元慶2)年に関東地方で地震

887(仁和3)年には南海トラフ地震と推定されている仁和地震が発生し、中部~西日本に大きな被害を与えた。信濃国ではこの地震による八ヶ岳天狗の土砂崩れでできたダムが千曲川を堰き止め、翌年に一気に崩壊して広大な田地を土砂の下に埋めた。

 

疫病も流行し、861(貞観3)年には平安京赤痢が大流行して多くの子供が亡くなった。(略)

 

洪水も繰り返し襲った。木曽川水系では865(貞観7)年の大洪水など、たびたびの洪水によって木曽川の本流が南に移り、両岸の尾張国美濃国との間で境界争いが起こっている、”

何やら、今と重なるな、と思いながら本を閉じ消灯して眠りました。

さて、ぐっすり眠っていたところに、地震で目を覚まします。

 

揺れは、それほど大きくはありませんでしたが、

半分寝ぼけたまま、テレビをつけました。地震です。

また、東日本大震災のあったところではないですか。

 

何の予感もありませんでしたが、これは偶然過ぎでした。

前にも似たようなことがあったのですが(これは、北海道胆振東部地震)、

それは、ちょうどその時読んでいた本の表紙に描かれている絵が、

被害の出た山崩れの映像・写真と酷似していたという、、、。

 

ともかく、少なくとも、気持ちだけでも気を緩めず、

真っ当に生きていようと思いました。

 

さて、今昔物語での行基の話ですが、とても面白味があって良い話なので訳してみました。

文庫本にして数ページ分の短い話ですが、訳してみるとA4用紙2枚分になりました。

訳すのに3時間半かかった^^;

 

実際に、本で確認されると良いとも思いますが、読んでくれたらその甲斐があるかな?

では

行基菩薩、仏法を学んで人を導いたという伝説

 

今は昔、行基菩薩という聖者がおりました。和泉の国、大鳥という今の大阪府高石付近にて、物に包まれた赤子がおり、父母これを見てお養われになりました。しばらく後、すくすく育った行基は、幼き頃に、隣村の子らと一緒に仏法を賛美して唱えていました。まず、馬・牛を飼う童が多く集まりこれを聴きました。そして、馬・牛の主が、馬や牛を使うために、人を呼びに遣わすと、その使い、この讃美を聞いてこの上な貴く感じ、皆馬や牛を連れ戻すという用を忘れて、涙を流してこれを聴きました。かくの如くして、男女、老若も来て集まり皆これを聴きました。郷の村長、これを聞き、「田植えもせずにそんな役に立たない者など追っ払ってやる」と言って行きましたが、近づいて聞けば、言いようもなく貴いのでありました。そして涙を流しこれを聴きました。また郡司の役人、これを聞いて大いに怒り、「われが行って追い払ってやる」と言って行きましたが、聞くと限り無く貴くて、これもまた涙が留まらなかったのでありました。また国司の役人、使いを遣わす度に皆、戻らないで涙して聴き入っています。そこで益々疑い、自ら行って聞いてみると、実に恐ろしく貴いこと限りなかったのでありました。この話は、隣の国の人に至るまで伝わり、皆聴きにやってきました。そうしたことから、この事は、朝廷に伝えられることとなりました。そして、天皇自らこれを聞き給うとそれは極めて限り無く貴いものでありました。

 

時過ぎて、行基慈悲深く、人を哀れむこと仏の如く、諸々の国々を修行して、本国に帰る途中、ある池の辺りに差しかかると、そこには人が多く集まっていて、魚を捕って食べていました。行基がそこを通り過ぎる時、若者がふざけて魚の膾(なます)を行基に向かって「これを食べてみよ」と言いました。行基はその場でその膾を食べました。その後に、程もなく吐き出すと、膾が小魚となって皆池に戻りました。これを見て、皆、驚き恐れ、「この上ない聖人に対して、そうとも知らず軽んじて侮ってしまった」と悔いて恐れました。このように、優れていたので、天皇聖武天皇)も行基をたいそう敬い、帰依しました。そして、行基は一躍大僧正に任じられました。

 

ところで、元興寺に知光という僧がおりました。優れた学僧でありました。「私は、さとり深き老僧である。行基は、さとり浅き小僧なり。朝廷はなぜ、私ではなく彼を賞するのか」と心の中で思い、朝廷を恨めしく思っていました。その後、知光は、病にかかり死にました。遺言にて葬らない事、としてあり、それに従い葬らずにしておくと、十日後に蘇り、弟子に語ったことによると、「私は、閻魔大王の使いに捕らわれて行く間に、金の宮殿があった。それは、高く、広く、光り輝く事この上なかった。『これは何だ』と聞けば、その使いが『これは、行基菩薩の生まれるべきところなり』と答えた。また、先にゆくと、遠くに煙と炎が空に満ちて猛々しく恐ろしいこと限りないものが見えた。そして、『あれは何だ』と聞くと、『あれは、あなたが落ちるべき地獄』と言った。使いに閻魔大王の御前まで連れて行かれて、そこに座ると、閻魔大王は、叱ってこう言った。『汝(なんじ)、人間世界、日本国において、行基菩薩を嫉み憎んで謗っておったな。今、その懲罰を受けるためにここにおるのだ』と。そして、その後、熱した銅の柱を私に抱かせた。肉は溶け、骨も溶ろけて耐え難いこと限りなかった。その罪尽きて後、許されて返ることができた」と言って泣いて悲しんだ。

 

その後、知光、この罪を謝るために、行基菩薩のところに詣でようとしているところ、行基はというと、その頃は、摂津国の難波の江に橋を造り、江を掘って舟津を造っているところでありました。行基、空にその心を知って、知光の来るのを見て、笑みを浮かべてご覧になりました。知光は、杖をついて、つつしんで礼拝し、涙を流して、罪を謝りました。

 

この行基菩薩は、前世において、和泉の国、大鳥の郡の住民の娘でありました。ところが、幼く未熟であったため、祖父母はそれを悲しむこと限りありませんでした。ところで、その家に、下仕えの少年がおりました。庭の糞便の始末をするものでした。名を真福田丸(まふくたまろ)といいます。その少年は、心に悟ってこう思いました。「私は、生まれ難い人間に生を受けたけれど、下賤の身にして、他に務めるところもないならば、決して後の世も当てにはならないだろう。ならば、大寺に行って、法師となって、仏の道を学ぼう」という思いを得て、主人に暇を願い出ると、主人はこう言いました。「お前は何の暇を取りたいのだ」と。少年は「修行に出たいと思っております」と答えました。主人は、「実の心ならば速やかに許可しよう」と言って免除されました。そして「ただし、子供の年頃の使用人だ。今修行に出る時に、水干袴を着せて上げなさい」と言って早速水干袴を調えてやり、その主人の未熟な娘が、「この少年の修行に出る用品です。功徳のためであります」と言い、この片袴を継縫って上げました。少年はこれを着て、元興寺に行って出家し、その寺の僧になりました。名を知光と言います。法を学ぶことにかけて、極めて優れた学生となりました。かの主人の幼き娘は、この少年が出家した後、幾ばくかして亡くなりました。その後、その娘、同国同郡のあるところに男児として(行基)転生しました。

 

ところで、その行基菩薩がまだ幼き少僧であった時、河内国で法会が行われることがありました。知光はこの上なく老僧であったのでその講師となりました。元興寺から来て、その講師として高座に登って法を説く。聞く人は皆心に染みて貴ぶことに限りありませんでした。説教が終わり、高座から下りようとする時、講堂の奥の方から、問答議論を始める声がありました。見ると、頭の青い少僧でした。知光は、「我に論議を試みるとは何程の者か」と疑い、振り返ると、このように論議を言い出しました。

 

真福田(まふくた)が修行に出し日藤袴我こそは縫いしか片袴をば

 

と。すると知光は大いに怒って少僧を罵り「我は、公私に使えて年を経てきておるが、いささかの落ち度もない。非常識な田舎法師の論義の試み、良からぬ事だ。いわんや我を罵ること極めて軽々しい」と言って怒りに満ちて退出しました。少僧は、打ち笑って逃げ去りました。この少僧は、行基菩薩であったということです。知光は優れた知者なのだから、罵られてもすぐに腹を立てるべきではありません。しばらくの間、これを思い巡らすことがありました。そして、思うに、閻魔大王から罰せられたのは、この罪もあったのだろうと悟ったのでありました。

 

この行基菩薩は、畿内の国に四十九所の寺を建て、悪しき所に道を造り、深き河には橋をかけました。文殊菩薩の化身であると語り伝えられているということです。

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