本に手を当てただけで、その本の何ページに何が書いてあるか分かる特殊能力があるという。超心理学の本にある実例だ。そんなオカルト的な話をしたいとは思わないし好まない。しかし、ある時期、他人を説得するために読まざるを得なかったので、ある程度、こうした似非科学とも言われる学問を書籍で通り抜けた経緯がある。まあ、諜報機関とかが研究している分野ですね。今は知らないが、ロシアだとか、ちょっと怖い。
なんて知ったかぶったようなことを書いているが、確かにそんな能力を持った人は稀にいるようだ。勿論私にはそんな能力はないし、これから持つ事もなさそうだが、本を選ぶ際、何らかの触手は働く。積読で本棚が犇いているが、こんな時、つくづく、そんな能力があったらなぁと強く思うのであった。しかし、積読にも良い作用があるというから良いのかも。というのも、手に触れる所、目に入る所に置いておくだけで、知的な刺激が得られる作用があるとのこと。確かに、こうした本に囲まれた部屋にいると、なんとも言えない高揚感に満たされる。
何はさて置き、まず今最も確かめたいこと、そんな分野がある。まぁ、哲学史である。しかしながら、他にもそうした興味を持った分野があって、そうした土台のもと(「何々史」といった体系的なもの)、濫読しているような状態だ。決して、気まぐれに読み散らしているのではない。さらに言えば、それは現実逃避的でもない。”はっきり目覚めて”いるための拠り所なのであった。これは、小林秀雄の『読書について』の一節からの引用だが、つまりそうして(読書することで)「はっきり目覚めて物事を考えるのが、人間の最上の娯楽であるから」である。ここを読んで、切羽詰まっていた気持ちが綻んだ。これでいいのだと。
小林秀雄さんの著書は、よく読んでいる方だが、この文も、別の本で読んでいたのかも知れない。しかし遥か昔の話。『考えるヒント』は愛読書であった。
この度、最後に残った処分すべき本を処分し、本棚の整理がついた。ここから、再出発といったところ。欲しかった全集を揃えたりもした。図書館司書を夢見たこともあった。それが、当時の最も考えられ得る性向だった。そんな気質は健在で、書棚の整理は実に楽しく充実感を与えてくれる。
『読書について』などは昭和14年に書かれたものであるけれど、SNSなどのネット社会でも文を読む、という意味において変わらないのではないかと思う。何ら古さを感じない。また、はてなブログは「フォローする」のを「読者になる」となっている。確かに、現代はSNSの時代だが、文章において決して物書きに劣らなかったりする。本離れが指摘されているが、媒体が何かの違いだろう。まぁ、どう読むかなのだろう。
ーー昨日届いた本。