アプリコットな日々

気長にブログ始めてます。

本に埋れたい。

(このお話は一部フィクションです。)

 

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本に埋れたくて、図書館へ行った。日曜だったので、子供づれの母子が、追いかけ合うように書棚の前でうろうろしていた。ちょっと邪魔だなと思いながら、いなくなるのをよそ見しながら待ち、開いた所で美術コレクションの本を抜き出し、棚の上で開いてペラペラめくる。少し外れたところから、さっきいた母親から意味ありげな視線を感じる。どういう意味で見ているのかな?と嫌な気がして、そこを立ち去り、海外小説の方へ行く。『〇〇のバビロン』とか言ったタイトルの本を抜き出して、ちょっと立ち読みしてみる。普段なら絶対読むはずもないものでも、図書館へ来ると色々読みたくなるのはなぜかな?どこか懐かしく、気持ちも満たされ、居心地がいい。子供の頃は、すぐ近くにあったので、割とよく利用していた方だと思う。小学生までは、併設されている児童図書館へ行ったものだったが、大きい方の図書館へも行った記憶がある。学級発表会で手品を披露するのに、トリックの本を借りて。今は、遠くに引っ越してしまったので、車もないし、買った方が経済的で。それで、部屋にどんどん本が溜まっていって、3回ほど、30冊位まとめて、古書店に買取してもらっている。

 

小さな市なので、蔵書数もそれほどなく、昂った気持ちも最初だけなんだろうな。最近では、本屋というものも街から無くなった。今は、一体何件あるのだろう。ブックオフとか言った店はよく見かけるようになった。昔は、いかにも”古本屋”と言った店があったものだが。本が好きなのは間違いないが、振り返ってみると、よっぽど好きだったんだなと改めて思う。若い時は、市外にちょっと出かけた時には、決まって本屋か古本屋へ立ち寄った。図書館情報大学を見つけた時は、これしかないと思ったくらいだった。都会に住んでいる叔父叔母が夫婦で「図書館へ行って、、」とかいった話をさりげなくしていて、いいなと。あんまり好きな人たちじゃないけど、せめて、それくらいの環境にはなりたいなと思っている。芋虫が羽化するように、今はコロナ禍の中、むくむくと心も体も変態しているような感じもする。

 

明日のことは、分からない。ただ日の当たる方へ伸びていくだけなのです。

(太宰の作品『パンドラの匣 』(新潮文庫)の一節です。)

補足すると、これは、死にかけている人の言葉として出てきます。当時はわかりませんでしたが、今はわかります。でも結局そういうことなんだとも思います。私も一度死にかけ、今は、回復したかに見えますが、このコロナ禍に際し、通じるものがあるように思います。

 

コロナ禍が過ぎ、もとの日常は戻るだろうか?戦争はなくても、どこから(武漢)かウィルスが漏れてこうした事態を招いている。武漢型とかイギリス型、そしてインド型と言った呼び名もギリシャ数字に置き換える提案がWHO から出されたそう。アルファ株、ベータ株、、、デルタ株。「インド株」とか「武漢株」にすると風評被害が起きるからと言うが、ともあれ災難にも挫かれることなく、自らの道を進んでいきたいものです。

 

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ではまた。

お読みいただきありがとうございました。