「なんだかんだ言って、50年経ってしまった。」
話終えて祖父はそう言った。
祖父は秋田県出身で、召集されて所属したのは、秋田17連隊だった。
祖父が、最後(終戦)に駐屯していたのは、千島列島先端の島、占守(シュムシュ)島に連なる幌筵(ほろむしろ)島だった。
ウィキペディア調べると「占守島の戦い」というらしいが、その辺りに該当する話になるかと思う。
というのも、子供の時に聞かされていたのは、11人の仲間のうち、祖父だけが生き残り、右腕には、銃弾が残っており、手の痺れという後遺症が今でもある(かなり辛かったものと思われる。それでも傍目には頑丈なくらいにしっかりとしていた。)、ということだけ。それだけでも、ああ戦争って大変なんだ、と思っていた。
祖父母は、北海道の観光地としても知られている小さな島で旅館を営んでいた。旅館は祖母が、祖父は、漁師の他、島を遊覧船で一周する観光ガイドも長いことやっていた。小学校6年生の時、夏休みの自由研究で発表するのに、一度乗船したことがある。舵を取りながら、船を沿岸へ寄せガイドをする様子は、いつもの祖父とは違い毅然として頼もしかった。
当時は、島の代表といえば、祖父、ということになっていたのか、新聞、テレビの取材も受けている。新聞では、読売新聞の一面に「人」というコーナーがあって、祖父の顔と記事が大きく載った。その写真は、葬儀の時の遺影に使われた。テレビの取材では、一つの特番みたいだったように記憶している。
毎年冬には、日本各地に旅行へ行き、秋田へも必ず寄って、その帰りに、我が家に1週間泊まって行くというのが恒例だった。子供の頃は、それはそれはたいそう楽しみだった。それは、祖父が亡くなって、祖母だけになっても同じで、祖母は、晩年には、我が家で介護を引き受け看取った。つい最近のことである。と言っても、もう5年経つ。
話を聞いたのは、平成8年か9年の頃だったと思う。1996年か1997年に当たる。手帳とペンを持って、話を聞き始めた。祖母と祖父は、いつもぴったりくっついていて、その時もソファーに2人揃って座って、私はその前に膝をつけて腰を下ろし話を聞いた。
話し始めた祖父は、これまでとは想像もつかないような、キリッとした口調で話し始めた。遊覧船のガイドの時よりももっと厳しく。さながら、軍人のようだった。さらに驚いたことに、どこへ行って次はどこで、そして戦闘になり、といったものではなく、昭和何年何月何日、〇〇に昭和何年何月何日まで、と、実に正確に覚えていたこと。兵長は、帽子に棒一本、伍長は星1つ、と言った具合だ。
それによると、昭和17年8月(22歳)召集。17連隊、(秋田県に?)翌3月まで。
昭和18年4月から昭和19年3月中頃まで、旭川。
昭和19年3月末小樽から北千島 [ 幌筵島(パラムシル)] へ。(今は「ほろむしろ」と読む)。
そして、終戦を迎えたところに、昭和20年8月17日、占守島にソ連軍上陸の報。
祖父の話によれば、その日、朝、ソ連軍上陸。昼頃に応戦に駆けつける。始め戦車3台に3名ずつ計9名で向かう予定が、1台の戦車が故障の為2台6名で向かうことになった。それに対し、ソ連兵は、200人。「かなうわけない」と言っていた。打ち合いの末、祖父は、右腕に銃弾を受け負傷。その祖父を戦友の前田〇〇(名前をしっかり言っていたが、忘れてしまった)が、祖父を側溝まで引きずって運ぶも突然動かなくなる。見ると右目横の額が撃たれており、弾が貫通していたという。祖父だけ生きており、夕方、日本兵のトラックに救助され、約1ヶ月入院。この間にソ連の支配下に置かれる、、、、
その後、回復後、千島で土木作業を約一年近く。それから樺太の真岡へ。そして函館を経由して、秋田の実家へ。昭和22年7月、祖母のいる島へ帰る。
「なんだかんだ言って、50年経ってしまった」
どんな気持ちで言ったかまでは、察することはできない。どんな気持ちでいたんだろうなと思う。
【この図は、メモをもとにまとめたものです(当時)】